私がはたらく母になるまでの話。

結婚後の私の負い目・産後クライシス(夫婦不和)【7年専業主婦だった私がはたらく母になるまでの話②】

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産後ケアを知って怒った私【7年専業主婦だった私がはたらく母になるまでの話①】はこちらから読めます。

私の育った環境とパートナーに求めたもの

私の地元は岩手の小さな町です。町に信号機は3つほどしかないのどかな町で、高校卒業まで過ごしました。

 

勉強はそこそこだけど、本を読むのと作文だけは、子どものころから好きで得意でした。

今はインストラクターの仕事をしているのが嘘のように、学校の体育はいつも1か2、体を動かすことが大の苦手でした。

 

そんな私が育った家庭は、同居する祖父母の力が強く、その「稼いでいる父親が偉い」「男は上、女は下」という旧い価値観が当たり前。

2歳下の弟は、「将来何になりたい?」と聞いてもらえるのに、長女の私には「どうせおまえはお嫁にいくのだから」と一切聞かれず(!)、「勉強しなさい」「将来は?」も一度も言われませんでした。

それは気楽な反面、自分の進路や将来に主体性をもたないと、周りに流されるだけのぼんやりした人生になってしまうんだ…と、子どもなりにいろんな本を読んで、働き続けられる職業やそのための進路を調べていました。この環境から抜け出したい、そんな気持ちもありました。

 

また、子どもながらに男尊女卑な価値観がイヤでたまらなかった私は、「オレについてこい」や「守る」「幸せにする」は、上から目線で支配欲いっぱいの上下関係で、そんな付き合いや結婚ならしない方がいい!!と真剣に思っていました。

 

そうして18で岩手の実家を出て、進学した北海道の大学で知り合った夫は、力を誇示したりリードすることが全くない、どんな話題も対等に、じっくり楽しく話せる人でした。

 

あぁ、こんなに楽にいられていくらでも話せる人が本当にいるんだ、嘘みたいだなぁ…と思ったのを覚えています。

 

就職の失敗

大学卒業後は地元岩手に戻って幼稚園に勤務しました。

 

しかし、仕事や人間関係のストレスで体調不良が続き、次第に笑えなくなり、ものを考えられない、ありえないミスばかりする、眠れない、何を食べてもおいしくない。

 

それが1ヶ月ほど続き、糸がプツンと切れたように、外出できなくなりました。どんどん痩せて、体重は40キロを切りました。

 

そして心療内科で「鬱状態」と診断。

 

それまでの私なら考えもしないような、偏って卑屈な思考にばかり捉われて、一度悪いことを考え出すと、まるで暗くて深い穴の中に吸い込まれてどんどん落ちていくような日々。うつ状態が続いたあの2年ほどは、本当につらかった。

 

周囲の人たち、家族にもたくさん迷惑を掛けました。

 

でも治療と回復の過程でカウンセリングを受け、自分の生き方の癖・気をつけるポイントも知り、家族との関係性をベースに、ラクに生きるための考え方や行動を学び直すこともできました。

 

カウンセラーの先生のこの言葉は、今でもよく覚えています。

「もっと『親を頼ること』を幼少期から経験できていたらよかったですね。あなたはなんでも自分で考えて決めて行動できるから、『助けて』『困った』が言えない。それはあなたの弱点なんですよ」

就職でつまづいたこの2年間は、凸凹がたくさんある私のままでどう生きていくか?を学んだ時期でした。

 

結婚に逃げた私、変化・成長し続けていく夫、私の後ろめたさ

この経験があり、「私はもうはたらくことはできないかも」と思っていました。また傷つくのが怖い、またきっと人に迷惑をかけてしまう…と。

 

結果、ずるい私は結婚に逃げました。結婚が逃げであることに気づきながらも、そのままの私を受け入れてくれた夫の優しさに甘えました。

 

2003年の春。私は24歳で、なんの社会人経験もないまま結婚しました。

 

当時夫は中学校教員2年目で、 帰宅は毎日深夜、週末も部活や大会・遠征で、ほとんど不在。

結婚を機に移り住んだ北海道の小さな町での新生活に、 自分で選択したこととはいえ心細さは募るばかり。

スーパーのアルバイトや町の講座に通って日中の時間を埋めていましたが、そこで思い知らされるのが、子どももおらず家事と趣味で時間をやり過ごし、夫の帰りを待つのみの、何も生み出していない自分

それに対して、仕事でさまざまな経験を積み、たくさんの人たちと関わり合いながら視野を広げ、忙しく悩みながら、職業人として着実に自信をつけていく夫。

 

働く夫に感謝し、そんな彼を最大限に支えたいと思いながら、「夫は社会に居場所と役割がある。それはこれからますます増えて強まっていく。 でも…、私には何もない」と言いようのない焦りと嫉妬も感じていました。

 

学生のころは、夫と対等に何でも話し合えたはずで、就職したてのころも、夫はよく仕事の相談をしてくれたのに、半年もすると、夫は自宅で仕事の話もほとんどしなくなっていました。疲れて、家には寝に帰るような状態に、「私は彼から話し相手にも、アテにもされていない」と感じて、寂しく虚しかった。

 

そして、「彼は、何もないつまらない私と結婚したことを、 後悔しているんじゃないか?」「夫に『もしまだ結婚していなかったら…」 と選ばなかった人生を想像されたとしたら…」と怯えていました。またこれはうつで苦しんだ2年のような思考に引き戻されるようでそれも怖かったんです。

 

今おもえば、マドレボニータを知った二男の産後に悩むことになる、私はどうやって社会と・人とつながればいいのか?」「このままはたらかなくていいのか?でも私、何ができる?」の葛藤は、すでに結婚当初から始まっていました。

 

でも、「専業主婦でいること」は自分の選択で、結婚する時に私は夫にこう言いました。

 

「きっとまた人に迷惑をかけてしまうから、こんな私ははたらけない。だからあなたが仕事に打ち込めるよう、 精一杯サポートする」

「また鬱にならないよう気をつけながら生きていくことで精一杯。この先も、子どもを産むのはムリかも知れない」

 

自分の考えや言い分の矛盾に恥ずかしさと引け目を感じて、友人、声をかけてくれた周りの人たち、 もちろん夫にも、このおもいは誰にも話せませんでした。

私は何の経験も行動する勇気も、頼ったり相談することもできない分、プライドだけは高かったのです。

 

やっと踏み切れた妊娠出産・妊婦になった私の本音

そうやって悩みつつも、鬱状態からも脱して体調にも気持ちにも少し余裕が出てきた結婚3年目、夫と「子どもをもとう」と話し合った決めた2005年、長男を出産。

 

喜びに包まれながら、内心、「これでやっと私にも『子育て』の大義名分ができた」と思っていました。

 

子どもが欲しいからこそ妊娠・出産に踏み切ったけれど、実は専業主婦で子どももいないのに働いていない後ろめたさがあったのです。

 

想定外に大変だった「産後」

しかし、産後は予想以上に大変でした。なぜなら、妊娠中の私はこう思っていたのです。

「赤ちゃんを産みさえすれば、なんとかなる」

「夫とも今までよりずっと家族らしくなってしあわせになれる。夫も仕事より、家族との時間を優先してくれるはず。そうすればもう寂しくない、 もうこれ以上あれこれ悩まなくてもいいはず」

 

正直、産んだらゴール!ぐらいののんきな気持ちで、ただただ、産まれてくる赤ちゃんの存在に希望と期待を託していた。

だから、その後しばらく続く「産後」なんて、「赤ちゃんとの幸せな暮らし」以外に考えもしませんでした。

 

つらい授乳、産後の体の不調と心の落ち込み

そして出産以上に大変だったのは、出産直後から待ったなしで始まる「授乳」でした。

なかなか母乳が出ず、そのせいでお腹が満たされない長男は授乳を終えた2,30分後にはまた泣いて、結局1時間と空かず、1日中授乳する生活が産後5ヶ月まで続きました。

 

昼も夜も寝られない・休めない・乳首が切れて痛くて、気が狂いそうでした。

 

また会陰切開の傷や痔の痛み、肩こりに頭痛と睡眠不足と 、とにかく身体中が痛かった。

 

でも先に産んだ母親学級からのママ友たちはみんな、「子ども産んだらみんなそんなものでしょう?」と全く意に介してないように見えました。

 

「こんなに痛みに弱いのは、私だけ?」「お母さんになったら痛みも我慢して、平気な振りをしなくちゃいけないの?」

「我慢できない私は、やっぱり母親失格なのか?」「子どもを持つ選択そのものが、間違っていたのか?」 、そう悩む日々。

 

毎朝、起きた瞬間から、「今日もまた一日中抱っこと授乳の1日が始まる…」と落ち込んでいました。

診断こそ受けていませんが、当時の私はまた軽い鬱状態に近かったのかも知れません。

 

子どもを抱っこして笑いかけながら、「この痛みとしんどさがいつまで続くんだろう」と自分のことばかり考えていました。

子育てを楽しみ味わう余裕がない自分に、自己嫌悪ばかりしていました。

 

産後クライシスの始まり

でも、私のそんな体調やつらさに気づく様子もなく、仕事でクタクタに疲れて帰宅した後は、子どもを可愛がって一緒にお風呂に入り、夜もぐっすり寝ていました。

 

ある晩、長男が泣いても寝ている夫に苛立ちが収まらず、私は「もういやだ!」と大声を出しながら壁をガンガン蹴りました。

さすがに夫は慌てて起き出して、長男をあやしてくれました。

 

当時の私は、産後ケア教室でもお伝えする「家事や育児がどんなに大変か、どうやってダンナに思い知らせようか?」 とひたすら態度で大変アピールをする「産後のプンプンおばさん」状態でした。

プンプンおばさん

 

「体がしんどいから手伝って」「起きて抱っこを代わって欲しい」 そう言葉にして伝えれば、きっと夫は応えてくれたはずです。

 

でも当時の私は、 「頼んだ後で、もし夫に嫌な顔をされたら…」と傷つくのがこわくて、言いたいことを言わずに飲み込んで我慢しました。

 

そのしなくていい我慢を続けるうちに、「あなたも親なんだから、言われる前に気づいてやってもいいよね?見てたらこの大変さ、わかるでしょ?なんで一番大変なおもいをしている私が、 頭を下げなくちゃいけないの?」と傲慢にも思ってしまっていました。

 

本当は子育てを助けてほしい・夫婦で一緒にわかち合いたいのに、いつの間にか「お願いなんてしてたまるか」とつまらないプライドがジャマして、 夫を信頼も頼ることも委ねることも全くできなかったのが、はじめての産後の残念な体験です。

 

大事なことを見失い、完全に子育てを自分だけで抱え込みこじらせていました。

 

夫と子育てへの苛立ちを持て余す

言いたいことが素直に言えない私は、夫に当たり散らしました。

深夜、1時間おきに授乳が続いた夜、「私の大変さなんて何もわからないくせに!出勤して子どもから離れられるあなたはいいわよね!!」 とキレて泣きながら怒鳴りまくったこともあります。

 

夫の出張先に電話して、「こんなに大変なんだから、今すぐ帰ってきて!」 と泣き叫んだこともあります。

 

この時、夫は車を飛ばして帰ってきてくれたけれど、私は泣くばかりで、ごめんもありがとうも言えませんでした。

 

あろうことか、そんな荒れた私の顔色をいつもうかがう夫のビクビクした素振りに、さらにイライラする始末。

今振り返っても当時の私は普通の精神状態ではなく、自分でも衝動的で攻撃的な自分に戸惑い、途方に暮れていました。

「赤ちゃんが産まれてしあわせになるはずだったのに、 なぜこんなにイライラするんだろう?おかしい、思っていた子育てと産後の夫婦とは全然違う。こんなはずではなかったのに…」と悶々とする日々。

 

ママ友にたずねても、「でも、ダンナさんがいろいろ手伝ってくれているだけいいじゃん! ウチのダンナなんて何もしないよ!!」と、かえってグチを聞かされる始末。

 

「私が知りたいのは解決策なのだけど…」 と思いつつ、それを口にすることも出来ませんでした。

 

次回、「子育てより悩んだ『母になった私のこと』・

夫の本音に愕然とした出来事【連載③】」に続きます。

 

  • この記事を書いた人

永野間かおり

認定NPO法人マドレボニータ産後セルフケアインストラクター。「産後のピンチを『チャンス』に変える」を軸に、産後ケア札幌教室と、産後セルフケアオンライン教室(全国)を開催。自治体/保健師・助産師など専門家向け講座の講師も務め、述べ受講者数は2,800名を超える。札幌在住、1978年生まれ、小中高生3男子の母。

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